プロフィール
沖縄県大宜味村で陶芸工房を営んでいます。↓蛍窯HPもご覧ください!
ウェブサイトURL:http://www.yamagami-manabu.com/
(移転・リニューアルしました)

2004年09月26日

マイコプラズマ肺炎で子供二人入院

台風18号の前から子供が二人とも強い咳の風邪、わたしもかなり咳をしていました。子供の熱は最初高熱だったもののその後しばらく微熱程度でしたので、もう治るかなと思っていたら、台風が去ってから長男が4日連続39度の熱を出し、これはさすがにおかしいと医者に行くと、二人とも「肺炎」との診断。兄弟でかかっているのでおそらく人から人へうつる「マイコプラズマ肺炎」だろうとのこと。レントゲンで肺の影が濃く、酸素濃度が足りない(空気中の酸素を充分に取り込めていない)ので即入院となってしまいました!私も症状は軽いけれどかかっている可能性大とのことでした。

2週間ほど前に山上がゲホゲホやっていたのでおそらくそれがうつったのだと思うのですが、家族全員でかかるとは!

ちなみに入院の4日前、長男がかなりだるそうにしていたので、肺炎と診断されたのとは別の医者へ行ったところ、「風邪」という診断。「本で見たマイコプラズマというのではないかと思うのですが、3人とも咳をしているし」というと、「ずいぶん勉強してるようですね。本は読みすぎない方がいいですよ、抜けてる事が多いから。」と、とりあってくれませんでした。「検査結果は一ヶ月くらいかかりますけど、それでもよければ検査しますか」といわれ、「それなら結果が出るまでに治ってしまいますね」といったら「そういうこともあります」というような返事。そのときは「マイコプラズマというのはまれにしかない病気で、かかってもたいしたことないのかなー」と納得してしまいました。

(私は病院と薬を極力避けたいので、子供に何かあると、医者に行く必要があるかどうかの参考に小児科のお医者さんの本を読むのですが、「マイコプラズマ肺炎」は一つの項目になっていて、「咳があって、最初に高熱が出てから1週間くらい微熱が続き、治ったかなと思ったらまた高い熱が出る、というときはマイコプラズマ肺炎にかかっている可能性がある」といった内容だったので、もしや・・・と思い、質問しました。「ずいぶん勉強している」というほどのことはしていないと思うのです。人のことはいいから自分がもっと勉強したら、といいたい。検査も、病院では週末をはさんで3日で結果が出ました)

4日連続で高熱が出たときは、「肺炎」という発想は頭から消えていましたし、「肺炎」と診断されてからも、本にはマイコプラズマ肺炎にはよく効く抗生物質があるので深刻な病気ではない、というニュアンスで書いてあったので、入院ときいてびっくりしました。

全部で5泊、ずっと付き添いましたが、子供たちも特に病院を嫌がりもせず、長男は点滴と酸素チューブ、次男は酸素チューブのみをつけた痛々しいいでたちで、入院生活を過ごしました。二人並んでチューブをつけている姿を健気に思ったので「カメラ持ってきて」と山上に頼んだら、絶句していました。「治る病気」と思い込んでいたので自分としてはあまり深刻にとらえておらず、夫や実家の母の反応と比べても「自分て冷血漢?」と思わなくも無いのですが・・・。入院生活も、ベッドに縛り付けられている子供をなだめたり狭いベッドに子供と並んで寝たりと大変な面もありましたが、家事は一切しなくていいのでけっこう快適、などと感じてしまい、周囲が考えるほど大変ではありませんでした。騒がしい日々に慣れきっている家に一人残された山上のほうが、台風もすんで荷物も運び込み、仕事がさあこれから、という矢先に、しーんとした家で洗濯をさせられ、往復1時間の道を毎日通わなくてはならず、大変だったと思います。

5日目には酸素濃度も上がり、退院許可が出ました。途中から大人の方2名が同室になりましたが、子供の騒ぐ声よりも私の怒る声の方が不快だろうなあと思いながら、食事の時間は怒ってばかりでした。いまになってみるとうそのようにもりもり食べていますが、入院中は食欲が無く、食べさせるのに苦労しました。食べる量を聞かれたり、尿の量を記録したりするので、なんだか躍起になってしまったような気がします。思えば病院というところはすべて数値にがんじがらめにされ、窮屈な気分にさせられます。

何はともあれ、元気になってよかったです。

そして台風や入院で大幅に遅れてしまった仕事に、ようやく入れそうです。

ご迷惑をお掛けしてしまった方々、本当に申し訳ございません!

2004年09月06日

台風18号 9月5日、沖縄本島直撃!

18号以前も何度か沖縄へ接近し、よく「大丈夫?」と聞かれましたが、宮古や石垣を荒らしまわって大きな被害をもたらしたものの、本島では強い風と高波程度で雨もほとんど降りませんでした。沖縄と宮古は400キロくらい離れているので、一口に「沖縄に台風接近」といっても影響が大分異なる、ということをこちらに来て初めて知りました。

さて、18号直撃の前日は仕事場建設の大詰め。ドアをあと一箇所はめるだけというところでした。翌5日には那覇に預けてある窯や粘土その他のたくさんの荷物をすべて運び込む予定になっていました。4日夕方には台風が接近しており風も強くなっていましたが、地元の人たちは今までの台風のようにたいした影響は無いだろう、という構え。ドアが開いているので荷物を運び込んでびしょぬれになったら大変なので、大丈夫かと聞くと、大丈夫大丈夫、という答え。でも心配なので念のためもう一度電話してみても、建設会社の社長は笑って「大丈夫大丈夫」。沖縄の人が言うことだし、じゃあ大丈夫なのか、と私たちも一応納得しました。報道も、今回も大丈夫、というニュアンスでした。

ところが夜中、突然今まで体験した事無いほどの、ガラスが割れそうな勢いの風が吹いてきました。雨も叩きつけられています。この家は木造の古い家なので風雨の音響効果は抜群です。「えっ?話が違うっ!」と思いながら、数箇所の雨戸を戸締りしました。

そして朝起きてラジオを聞いてみると「復帰後最も風が強い」台風などという表現が使われ始めているではありませんか!どうやら夜中に進路が急にキュッと変わったらしいのです。
沖縄の人たちもこれには大慌て。昨夕の社長がずぶぬれになって荷物搬入中止の確認をしに家に来ました。

近くの友人が電話をくれ、「停電になるだろうから冷蔵庫を開けなくてすむように食べ物の対策をして置くように」などのアドバイスをしてくれたので、慌ててカレーを作りました。これは非常にありがたい助言でした。

ラジオにかじりつきながら(今はテレビなしの生活)、水を汲み置きしたり、雨戸を固定したり。固定しないとがたがたとてもうるさいく、迫力満点なのです。ところが雨戸を閉めると風が間にたまって内側のガラス戸がたわんで割れそうになっている・・・少しガラス戸を開けます。

何件か本島在住の方からお見舞いの電話もいただきました。「来て早々こんな大きな台風でたいへんですね」という方もいれば、「でもさ、不謹慎だけどなんかわくわくしない?」という人も。夕方には停電も加わり、私もなぜか少しわくわくしてきました。家に閉じ込められて、すさまじい風の音、明かりはろうそくと懐中電灯、台風の中心は刻一刻と近づいてくる・・・

ドンドンドン「山上さん、大丈夫ですか!山上さーん!」あけてみると、区長さんがずぶぬれになって立っていらっしゃいました。「公民館はいつでも開いているので何かあったら避難してもいいですからね」私たちが初めての台風でしかも木造の古い家なので心配して見に来てくださったんです。外にあるトイレに行くのもとても大変なのに、わざわざ来てくださって・・・大感激でした。

雨漏りもし始めていたし、道に水が多量に流れていたし、避難した方がいいのかどうしようか、と話していたところだったので、背中を押されるように避難する事を決定。ろうそくの火で夕食のカレーを食べてから、向かいの公民館へ移動し、夜を過ごしました。コンクリートの建物なので、音が静かなのにびっくり。安心して眠る事ができました。懐中電灯の明かりで本もまるまる一冊読んでしまったりして。

翌朝にはもう車が走り始めていて、峠は越えた感じでした。それでも学校や職場はお休みになるほど。停電は昼過ぎまで続きました。停電で一番の問題は冷蔵庫でしたが、幸い中のものは傷んでいませんでした。前日のアドバイスはありがたかったなーと何度思ったことか。

家の方は雨漏りも思ったほどたいした事は無く、とくに被害はありませんでした。幸い部落内でも大きな被害はありませんでしたが、各地でいろいろあったようです。

それにしても、台風のスピードは、沖縄にいる間は遅いらしく、18号も時速10キロとのろのろでした。本土へ行くとぐんとスピードを上げるそうです。沖縄では雨よりもとにかく風の被害が大きいということです。最高風速61メートルを記録した、といっていました。

沖縄の人でもすごいというほどの台風。来て早々でしたがあまり被害も無く体験できてよかったような気がします。

2004年09月02日

行ってきました!りんけんバンド・華氏911・ヘリ墜落現場

・りんけんバンド.

隣村の村祭りに、りんけんバンドが来るというので行ってきました。
無料!車で5分!たいした混雑もなし!
こういうときは、沖縄はいいな〜と思います。

「エイサー」ってご存知でしょうか。

沖縄の旧盆でご先祖様を送ってから若者が家々を練り歩きながら踊るのが由来ですが、最近では全国的にも有名になり県内各地で力を入れているそうで、さまざまな形でさまざまな機会で踊られています。エイサー大会があったり、何かのお祭りのときに地元の青年会が踊ったりと、沖縄の夏には欠かせないものになっているようです。

りんけんバンドといえばノリのいい沖縄風の音楽とすごい声をした女性ボーカル、と思っていましたが、ステージでは大胆なエイサーを踊るのも特徴だったと、今回見て初めて知りました。体の動きが大きくて、速くて、ほれぼれしました!

りんけんバンドの前には、平敷屋エイサーという、こちらは伝統的な踊りで有名なエイサーがあり、見ごたえ充分。平敷屋の方は、大人数で一糸乱れぬ踊りと歌と演奏で、動きは静かで顔もまじめ。りんけんバンドと対照的でした。踊り手が平敷屋という地域の青年会ということで、趣味で集まった人たちというわけではないのだと思うのですが、それでこれだけ完成度の高いものを踊るのですから、沖縄は芸能の地盤が違う!と感じました。

この時期はあちこちでエイサーだの豊年祭の踊りだのハーリーだの闘牛だの、とにかくイベントには事欠きません。ひとつの県でこんなにいろいろあって、やっぱりすごいです。

ライブでは、盛り上がって皆で踊る雰囲気になったときには、若者は意外とおとなしく、前に出てノリノリなのは、おばあ予備軍やおばあたち。
なんのてらいもなく気持ちよさそーに踊っていました。


・華氏911

長男を妊娠中に胎教に悪そうな「マトリックス」を見て以来の映画館。

(「マトリックス」は、以前住んでいた茂木町のショッピングセンター「もぴあ」の2階にあるかわいい映画館というか映写室のようなところで観ました。観客は私たちだけ)

家から1時間半くらいドライブしたところにある「北谷(チャタン)という街にある映画館に行ってみました。シネマコンプレックスというのでしたっけ、ひとつの場所でいくつもの映画を同時上映しているところに足を踏み入れるのも初めて!入るとぷーんと独特の甘いポップコーンのにおいがして、アメリカっぽーい!とちょっと興奮。二人だけで映画を見るなんて、本当に久しぶりで、感慨もひとしおです。

見ごたえのある映画でした。色々な側面からブッシュ/イラク戦争を批判していますが、個人的に印象に残ったのは、派兵されている米兵にまつわる話がたくさん紹介されていることでした。アメリカでは、このようなエピソードは戦意を喪失させるといってあえて放送されないそうです。

ラムズフェルドは辞任しろ、とか、イラクから戻ったがもう二度と行きたくない、行けといわれて拒否したら刑務所行きだが刑務所を選ぶ、などと公然と話す兵士もいました。

派兵されると決まっておびえていたとか、帰ってきてからの苦しみとか、現地で罪のない人を殺したり、殺されたりする恐怖とか、しかもそれが何のためにかわからない、などなど。

沖縄に来てから目にする外国人は、ほとんどが米兵でした。彼らを目にすると、条件反射的に「ブッシュの回し者」とか「レイプ事件の当事者」とかいう白い目で見てしまっていましたが、この一種の差別ともいえるような感情を抱いてしまうことが自分でも気になっていました。

映画を観て、彼ら個々人がブッシュの回し者であるわけではないし、むしろ軍隊というところが経済的に厳しい人たちの狭い選択肢の一つになっている、ということもわかり、一方的な決めつけをしないですむようになりました。批判すべき、憎むべきは、個々の人間ではなく、トップの人間だ、という結論に達しました。事実、在沖米兵もかなりの数がイラクに派遣されています。

ちなみに北谷は、何年か前に暴行事件が頻発した街。テレビの映像で見覚えのある駐車場がありました。北谷は、アメリカっぽい雰囲気を売りにした観光名所で、夜は米兵との出会いスポットになっている街だそうです。米軍を憎みながらもアメリカを売りにせざるを得ない、米軍は嫌いだけど米兵は好き、という沖縄のパラドックスを体現している場所に思えました。

映画館の近くを歩いていてヘリのような音が聞こえましたが、電車や車の音とは全く違う、鋭い爆音で、耳をふさがずにはいられませんでした。周辺の人たちはこんな音と日常的に接しているのか、こんな音に慣れなければいけないのか、驚きでした。

それにしても、映画によるとブッシュ親子は権力と財力を欲しいままにし、まだ足りないようなのですが、すべて手に入れてこの上もっと儲けて(しかも自国民や他国民を犠牲にして)何を買いたいのかな?と、日々、トイレが中にあって水洗だったらいいな、とか、ねずみが入ってこない家に住みたいな、などと願っている自分としては、全く理解不能なのでした。



・米軍ヘリ墜落現場

まずは事故のあった宜野湾市の地図を見てください。MAP 隣接の嘉手納町と北谷町も。ほとんどがアメリカの敷地です。中は軍人の住宅地のようなところまでそれはそれはゆったりとスペースが取られていて、沖縄県民はアメリカの中にお情けで少し場所を与えられて狭いところに密集して住まわされている感じです。

ヘリの現場は、もう生々しさはだいぶ消えていました。生々しいときは米軍に封鎖されていて現場横の道は車で通れなかったそうです。校舎が壊されて焼け焦げている跡と、校舎横の大きな木の幹の一部が炭化して残っている様子から、ヘリの墜落を想像することができました。この跡は残そうということになっているという話も耳にしました。

事故跡がなくて、飛行訓練をしていなければ、ここの住宅地のすぐ裏に米軍の飛行場があってしょっちゅう低空飛行の訓練をして爆音を轟かせている、ということ自体とても想像しにくい、私やあなたが住んでいてもおかしくない、普通の静かな住宅地でした。

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。